母国語は文化になるのか

VRによる同時翻訳サービスの実験を経て、母国語以外を使用することを『禁止』するというプレスリリースの記事が流れてきた。

prtimes.jp

プレスリリースより抜粋

人種や性別とまったく同じように、英会話力など、本業の能力とは何の関係もありません。英語ができる無能な人が重宝され、本当に実力のある人々が抑圧される暗黒時代はもう終わったのです。英語ができないだけで不遇な目に会っていた、優秀で素晴らしき人達。あなた方はついについに、檻から解放されたのです。自由に、羽ばたいてください。思う存分、きらめいてください。

これを読んで頭に浮かんだのは、司馬遼太郎がアメリカ素描に書いた、文明と文化の定義だ。文明とは普遍的なもの、文化とは特定の集団にのみ通用する特殊なもの、と定義している。

同時翻訳サービスは、母国語という各言語圏の文化を、文明へと変化させる触媒のように見えた。例えば、襖は文化だけれども、もし自動で開閉する自動襖になると、文明と見ることができる。ただし、この例でいうならば、襖を家の設備として誰もが活用することは可能になるが、襖の開閉の作法(まず少し開けてから両手で開ける)は継承されないので文化から文明へと変化する過程で、そぎ落とされるニュアンスがある。

同時翻訳にも、当然にそぎ落とされるニュアンスがある。ただ、ビジネスにおいては問題ないと思う。どんな活用例が出てくるか、興味深い。