エッセー、ビジネス書と小説

最近は、自己啓発書のような類の本、ビジネス書、それからエッセーを手に取ることが多いような気がします。いや、小説も買ったり借りてきたり(世田谷図書館のヘビーユーザーです。)することはあるけれども、読まずに本棚に眠っていたり最初の数ページだけ読んで返すことがほとんどの気がします。


2011年になってからこれまで、10冊の本を読んだけれど、その中に小説は一冊も含まれていません。今、図書館に予約している本も(図書館の本がネットで予約できる、と言う仕組みを知ってからますますヘビーユーザーです。)小説はついさっきまで含まれていなくて、今読み終わった村上春樹のエッセーから、何となくレイモンドカーヴァーとスコットフィッツジェラルドの本を予約したくらいです。(ぼくの本を選ぶ基準は多分に信頼するソースからの情報に依存していて、あまり自分で好きな作者がいたりとか、好きな文体があったりとか、そういうことはほとんど無い。)これも、実際借りてきたら読むかどうかは怪しい。もっと言うと、もし読んだとしても短編小説だから、「小説」を読んだことにして良いものかどうか。


ビジネス書、自己啓発書、社会的に成功している人の半生を振り返った本、そういう類の本は面白いし、読み終わったときに背筋が伸びるような感じがして気持ちがいいのだけれど、それ以上の何でもない、と言うか、ちょっとむなしい感じがする、と言うか印象として軽い。


ルポ、エッセーなんかも面白いけど、やっぱりふーんと納得してその場で終わり、のような気もする。


どちらも、読みながらいろいろと考えてはいるのだけれど、読み終わってから振り返ると、考えた割にはガワだけが厚くなったような気がして、中に何か残っただろうか、と考えてしまうことが多い。むしろ、そういう気持ちになることが読む前から分かっているから、何か一つは学ぼう、と構えてから読み出すことが多い。やっぱり身の回りの整理整頓って大事だよな、とか、旅行をするって言うのはその場所の歴史も含めて立体的に観ることで見えることがあるんだな、とか別に読まなくても浮かぶようなことを考えて、無理やり納得させているような感もある。


別に何かを読んだらそこから常に学びたいと思っているわけではないし、だいたい何となく手に取った本を何となく読んでいるのだから、その時間が楽しければそれで良いと思う。ただ、物語が好きな人、もっと言うと自分の好きな小説作家がいたり、好きな小説があったりする人に憧れがあるんです。


好きな小説がある人、好きな作家がいる人、それは好きな洋服やレストラン、スポーツチーム、お酒がある、と言うのとは少し違う。あくまで個人的な印象でしかないけれど。文章に自分なりの嗜好がある人は、いろんなことを丁寧に受け止めている気がする。例えば、日常の景色とか、乗っている車のこととか、住んでいる家のこととか、そういう諸々のことを。


目で見たものや聞いたものを言葉で考える、もしくは言葉からまるで自分で見たり聞いたりしたように考える、小説ファンは多かれ少なかれそういう回路になっている人ではないのかなと勝手に想像していて。そういう風に送る日常は、きっと印象深くて色鮮やかなんじゃないかと考えるんです。


というか、そういう日常に憧れて、小説を読みたいってぼくは思っている節があります。ただ、小説って片手間で読んでもつまらなくって、どうせ読むならちゃんと読みたい。その点、エッセーやビジネス書なんかは電車でちょっとずつ読んだり、毎晩布団で読んでは数ページで寝てしまっても、それはそれで読めてしまう手軽さがあって。だから小説はあまり手に取らないんですね。


とりあえず、今日予約したカーヴァーとフィッツジェラルドは何とか読もうと思います。そういえば、「グレートギャッツビー」はアメリカにいるときに原作を買ったけれども、最初の1ページしか読まなかった。まあ日本語で読んだから良いってことにしてあるけど。。。