古典を読んで高校時代を想う

週末は秋の訪れを実感するような、朝晩が涼しくて気持ち良い2日間だった。今週はジムに行かずじまい。土曜日は家族でピクニックに行って、ゆっくりして、日曜日は買い物に出かけて、DVDを観た。子供を左腕でだいていることが多いのだけれど、おかげで左腕の上腕二頭筋は鍛えられている気がする。月曜日には大抵軽い筋肉痛になっている。

少しずつ、「百代の過客」を読んでいる。更級日記の序文は高校時代に国語で読んだことがある文章で当時の情景が浮かんでくるようだった。平安時代の文章を読んで、10年そこら前のことに思いを馳せる、なんだか不思議な気分だ。

東路(あづまぢ)の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふもののあなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなる昼間、宵居(よひゐ)などに、姉・継母(ままはは)などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏(やくしぼとけ)を作りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとく上げたまひて、物語の多く候(さぶら)ふなる、ある限り見せたまへ」と、身を捨てて額(ぬか)をつき、折りまうすほどに、十三になる年、上らむとて、九月(ながつき)三日門出して、いまたちといふ所に移る。

高校の国語で古典を読む機会があったのは、ありがたいことだなと思う。古典の読み方をもう少し覚えていれば、今から徒然草とか平家物語とか読めるんだけど、なんだかハードルが高くて手を出さずにいる。徒然草を読んだときには、あーそんなものかねー、と感心しながら読んでたような記憶があるけれど、果たしてどうだっただろうか。